2015年2月1日日曜日

ジョン・ダワー(John W. Dower, 1938年生)の本
「三浦・高杉訳:敗北を抱きしめて,2001,岩波書店」 については http://ironna.jp/article/873 『「敗北を抱きしめて」などいられない』などの意見もある. 読んでみた.

 序文における著者の‘日本’ 認識の基調は‘何故,他のアジアの国のようではないんだ,ありえん’ という感情のように思える.
著者は,1930年代以前の西葡蘭英仏の植民地主義‐帝国主義を問うことがない.

第一部 「無法国家日本は,…」における‘無法’ の罵りの粗野といかがわしさが著者の欺瞞の根底にあると感じる; 誰が誰に対して無法なのか?
‘日本’ という未知の国を見極めようとしているが,眼前に吹き荒れる風に嬲られて,自ら見たものでもない人間性を想像力によって受け入れているところがあると思う.日本兵による残酷と虐殺も多々あったであろうが,米兵による虐殺から逃れるための日本人による自決もあれば,米兵が日本軍兵士の屍から頭蓋骨を抽出し飾り物を制作したというような行為については眼を眩まさせている.
『ペリー提督は,ビンを開けて一匹の妖精を出してしまった,そして今やその妖精は血にまみれた怪物になった-アメリカ人はそう表現した.』と書いたその所から,著者の顛倒妄想する日本理解はそう跳びだしてはいない.
著者は「民衆意識」という曖昧な枠組み(Social Realism?) を衒って,諸国民の「民衆意識」の狂騒および日本における乱舞顛倒を想像力に助けられて記録することになったようだ.

第二部 戦後の指導の混乱・腐敗・無能といった要因…の「無能といった要因」はどんなことを指しているのかまた如何なる有能を求めているのかが不明瞭である.
『もともと達成不可能な戦争目的を追求していたからである,….』 戦争の相手であった帝国政府の行動理由については(暗黙のうちに無検討で)否定し,参戦する米国政府の行動経過については無批判である. そうではあるが,日本占領期間の支配に関った米人の行動については個人的欠陥(高慢や偽善)を見,日本人については腐敗や無能に注目している.
日本社会に現れる dynamics(社会の変遷/発展の力学)を感じてはいる.第二部と第三部は,まあ,著者には奇妙な文化についての報告で,著者の人となりを知るための資料であろう.

第四部 『裕仁はしたたかで適応力のある人物であり,天の助け-もっと具体的にいえばマッカーサーの助けに-によって生き残り,満ち足りた人生を送った.』
著者によるこの断言は,著者が天皇裕仁と身近に親しんだことはないと思われるから,不可解な偏見または三文小説を感じさせる.
著者のフェラーズ准将への言及は,天皇の役割の位置づけをめぐって,曖昧ながらも敵対的評価であるように読める.‘天皇をどう評価していれば GHQ はよりよい仕事のをなし得た’と著者は考えるのだろうか?
著者は大日本帝国憲法が帝国議会を通して立憲的に運用され,また陸海軍の統帥権のために歪められたことを全く論じることがない-おそらく,大日本帝国の議会政治を全く無意味な欺瞞と看做しているからだと想像される.さらには,‘天皇をボスとする軍国主義者のギャング達’と見る眼にはフェラーズ准将(と戦略作戦局(OSS))を揶揄する三文小説作家を感じる.
『天皇は神格問題をごまかした声明を出しておけば外国向けには都合がいいと考えるようになった.』というような政治的根拠の疑わしい解釈にいたるのも,著者の‘日本人理解=猿理解’というような知性の齎すものであろう. 確かに,著者は多くを観察したが,案の定というべきか妄想に酔いつぶれて自らの身を互いに結び絡めて解くことが出来ない八岐大蛇/ゴルディアスの結び目(Gordian Knot)のようになった.

率直に言って,この本は,政治小説 ‘Dower's Travels’ であると思う.
もしこの本から,想像による言い現わしを取り除いたら,どう見えるのだろうか?

1 件のコメント:

Urata Toshio さんのコメント...

http://ironna.jp/article/915
アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略
を読む.